日銀の金融政策はこの先どこへ向かうのか 総裁たちと株式市場の意外な関係
《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》
黒田日銀の金融政策
第31代日本銀行総裁、黒田東彦氏の退任が今春、予定されている。兜町には昨年来、「黒田総裁退任=金融緩和の出口論」が聞かれ始めていた。加えて昨年終盤の「長期国債の利回り上限引き上げ」が「金融政策転換」の物議を産み落としている。
黒田総裁は、2013年3月20日に誕生。第1次安倍内閣(2012年10月~2014年12月)発足直後。第2次安倍内閣(2017年11月~2020年9月)でも日銀総裁を務めた。凶弾に倒れた安倍氏には不遜な表現かもしれないが、黒田氏の執った金融政策は安倍氏に忖度したものだったと言える。
流行語ともなった黒田氏の「異次元」の金融緩和は、2013年4月4日に発表された。2010年に設定された金融緩和の目安、資産購入基金(金融市場に資金を供給するために、国債・社債・CP・ETFなどを買い取る基金)から、「マネタリーベース(世の中に出回る現金通貨+民間銀行が日銀に預ける金銭)に置き換える」というもの。かつ、「2012年末で138兆円だったマネタリーベースを今後2年間で倍に増加させ、金融緩和を推し進める」という内容だった。日銀が容易に金融緩和を進める施策に方向に、大きく舵を切った。安倍氏は「長らくのデフレからの脱却」を標榜していた。ちなみにマネタリーベースはすでに、660兆円規模に膨らんでいる。
依然として黒田氏は「大規模金融緩和の継続」を強調している。結果が「過ぎた(悪い)円安」を生み出し、日本の景気(経済)復権の重い足枷になっているにもかかわらず、だ。
だが兜町を歩くかぎり、「黒田批判」の声は必ずしも高くはない。
基本的に金利引き下げ・金融緩和は、株式市場にとってプラス材料。兜町では、こう言う。「黒田氏が異次元緩和を打ち出す前年の日経平均株価の終値は10,395円。それが2022年末は26,094円。2.5倍になっている」
こんな声も聞かれる。「東証再編の狙いは、外国人投資家の参入促進。未だ効果は確認できないが、昨年3月末時点で外国人持ち株比率が高い企業の上位3社はギフティ、メドピア、SREホールディングス。それぞれ2年前の持ち株比率に比べて23.8P、18.5P、17.5P上昇している。企業の収益性など魅力による結果だろうが、円安進行が外国人投資家にフォローの風となっていることも間違いない。円安は東証再編の狙いを後押しする風といえる」
一方で、前記したように、「黒田氏退任が金融緩和の出口への一歩となる可能性」論がある。「株安のギアを踏み込む危惧」が高まり始めていることも、また事実である。
結果は、今後の動向を見守るしかない。
日銀総裁と株式市場
そもそも日銀(政策)と株式市場の関係は歴史的にどんな状況なのか。これまでに黒田日銀ほど、株式・為替市場に影響を与えた日銀総裁・金融施策はあったのだろうか。遡ってみた。特筆するほどの「日銀(総裁・金融政策)が直接影響した動向」は限られている。
日銀の誕生は、1882年(明治15年)10月10日。初代総裁は吉原重俊。当時の大蔵少輔(次官)からの登用だった。
なぜ、日銀は設立されたのか。
明治政府は殖産興業政策を進めた。だが、財政基盤が確立していなかった。不換紙幣(流通通貨と交換できない)の発行に頼らざるを得なかった。インフレが発生する。1881年に大蔵卿(現・財務大臣)に就任した松方正義は、不換紙幣を整理し、正貨兌換の銀行券を発行する中央銀行として、日本銀行を設立した。初代総裁・吉原のなすべき仕事は政府・全国各地の国立銀行が発行していた不換紙幣を回収し、日銀が発行する兌換紙幣を現金通貨の中心にすることだった。
その後、1945年の終戦まで16人の日銀総裁が登場している。株式・為替市場との絡みは見て取れない。唯一、国の経済・財政再建に直接関わった総裁としては、7代目(1911~1913年)の高橋是清がいる。だが日銀総裁時代は「日露戦争の戦費調達のための外債募集」の実績にとどまる。正確には、歴史に残る経済・財政策の展開で「だるま宰相」と称されたのは政界に身を転じてからだ。
日本政府は悪化一途の財政状況から脱するため、2018年に「2025年度のプライマリーバランス(PB)黒字化」を掲げた。だが2020年4月の『経済財政白書』で「PB黒字化」の文言は姿を消した。意味するところは、「財政赤字」は今後とも改善しない、ということである。「平成のだるま宰相、出でよ」を痛感する。
だるま宰相は、1931年に発足した犬養毅内閣で蔵相に就任している。「大恐慌回避」「満州事変の戦費捻出」の課題を背負わされた。高橋蔵相は就任当日に「金本位制(金の輸出)」を停止し、必要に応じて原資をいくらでも増やせる管理通貨制に移行した。円安が進んだ。輸出に追い風が吹いた。そこで日銀を引受先とする国債の発行に踏み切り、歳出を大幅に増やした。日本は世界に先駆けて世界恐慌から脱した。
が、ここで施策は終わらなかった。海外の円安進行に対する「為替ダンピング」に景気回復の道筋を確認した時点で、赤字公債発行によるインフレを懸念し、財政均衡に舵を切った。1936年予算で「公債漸減」「軍事費抑制」を打ち出した。結果は周知の通り、二・二六事件での暗殺に繋がった。以降、日本の財政は歯止めを失い、膨張の一途を辿った。今の日本に、「身を挺してまで」財政再建に立ち向かおうとする「第二のだるま宰相」を生み出す下地は無いのだろうか?
バブルを生んだ日銀総裁
「マッカーサーに始まる戦後日本の株式市場」の記事で、以下のように記した。
東証の戦後の再開は、1949年5月16日。連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に置かれた日本は、株式市場の再開を4年余り認められなかった。再開の是非は、GHQ総司令官、ダラス・マッカーサーの判断に委ねられていた。証券各社は再三再四、「再開してほしい」と陳情・嘆願した。
そうした動向の中にあっても、第18代日銀総裁・一万田尚登(1946年6月~1955年12月)の係わりは見受けられない。マッカーサーに会見を申し入れ、「日本経済の実情を知ってほしい。ありのままのことを話し、私の意見を言うから、気に入らないことは聞き流しても結構だ」と伝え、信頼関係を築く活動をしたことは伝えられている。だが、株式市場云々に係る行動は伝わっていない。
私が知る限り、日銀総裁と株式市場の関係が兜町で取り沙汰されたのは「プラザ合意」に際しての第25代総裁・澄田智(1984年12月~1989年12月)である。
プラザ合意は1985年9月27日、ニューヨークのプラザホテルでG5の財務大臣・中央銀行総裁会議で合意した。いわゆる「レーガノミクス」の失政で双子の赤字に晒されたアメリカの救済策。参加各国による「ドル売り協調介入」だ。円は急騰した。円高不況。1986年のGDP成長率4.7%が、翌87年には2.7%に急降下。ハイテク商品を軸に輸出攻勢をかけ始めた矢先だった。
兜町には、こんな声が沸き起こった。
「竹下(登)蔵相は中曽根(康弘)首相から『ロン(レーガン)と俺の仲は知っているよな。助けてやれ。後(の総理)はお前に譲るから』と言われた。澄田には中曽根が『表舞台に立てなかった日銀には格好の機会だ。お前次第で日銀の存在感は変わる』と耳打ちした。澄田は飛び乗った」(野村證券副社長・福島吉治)
円高不況で240円水準だった円が、1986年には160円・170円水準まで上昇した。87年2月には「ドル高修正の目的は達した」として、G5は「ルーブル合意」を出した。だが円高は進み続けた(120円台まで)。日本は一転、相次いで公定歩合を引き下げた。市中に溢れた金が、バブル相場に繋がっていった。