マッカーサーに始まる戦後日本の株式市場 機械化、国際化、そしてノルマ営業の今

千葉 明
2022年8月15日 12時00分

DenisProduction.com/Adobe Stock

《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》

マッカーサー元帥の「大型電子計算機」

 東京証券取引所によると、証券会社のコンピュータから東証のシステムに売買注文が出されて取引成立するまでの時間は、約0.2ミリ秒。人間の目の瞬きは約150ミリ秒と言われているから、我々の1回のまばたきの間に約750回の注文に対応できる勘定になる。

 こんな取引体制が始まったのは、1999年5月以降。それまでは売買は東証内の「株式売買立会場」で行われていた。証券会社からの売買注文は所属の場立ちに伝えられ、東証の仲立ち人に出されて、そこで成立する、という流れだった。昔日の感が否めない。

 証券界にコンピュータが登場した契機をたどると、話は「マッカーサー元帥」に遡る。

 東証の戦後の再開は、1949年5月16日。連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に置かれた日本は、株式市場の再開を4年余り認められなかった。再開の是非は、GHQ総司令官、ダラス・マッカーサーの判断に委ねられていた。証券各社は再三再四、「再開してほしい」と陳情・嘆願した。

 余談だが、GHQの本部は建て替える以前の旧第一生命ビルに置かれていた。作り直されたというトイレを記憶している。小便器がなんと高かったことか。また、複数のぶら下がり棒が設けられていた。用を足した後で棒にぶら下がり背筋を伸ばし、スッキリするために改修されたのだと聞いた。

 とにもかくにも、「そろそろ日本に証券取引所を再開してもいいだろう」と断を下し、許可を与えたのはマッカーサーだった。

 あまり知られていないが、マッカーサーは退役後、スペリーランドという企業の会長職に就いた。電気製品メーカー。ユニバックブランドでコンピュータも扱っていたが、IBMの足元にも及ばない存在だった。そこでマッカーサーが着目したのが、経済再建の階段を昇り始めていた日本だった。

 証券業界に打診があった。証券業界には「マッカーサーに対する恩義」を説く向きが多く、野村・山一・大和・日興の4社がそろって導入。「当初は持て余し気味だった」と語り継がれているそのコンピュータを、彼らは「大型電子計算機」と呼んでいた。

 ただ、「さすがは商売人」と斯界を驚かしたのは、野村證券だった。この「大型電子計算機」を使って、上場会社の株式課に代わり、「株式の名義書換」「配当計算」の業務を代行するという商売を行ったのだった。当たった。

 のちに野村證券は、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)・神戸銀行(現・三井住友銀行)と合弁で東洋信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)を設立した折にこの事業を委譲しているが、東洋信託銀行にとっては有力な事業柱の一本になった。

日本市場の国際化は「大和証券が切り開いた」

 「外国人投資家の日本株離れ」が指摘されている。東証が発表する「投資家主体別売買動向」にもその傾向は、如実に表れている。「外国人投資家の売り」を「証券会社の自己・個人投資家が買う」という構図だ。

 本年4月の東証再編・プライム市場創設も、「いかに外国人投資家を呼び込むか」の一策だが、目下の時点では効果のほどは確認できないでいる。

 ところで、日本の証券市場の国際化は、どう、誰が切り開いてきたのか。

 兜町では、「大和証券が切り開いた」とする。「1919年(大正8年)にいち早く、ニューヨークの証券業者と提携した」「アメリカの投信会社ドレイファスファンドから、1億2000万ドル余りの買い注文を取った」など、いまも語り草となっている事例がその理由とされる。

 そんな歴史を示すような出来事が、1980年12月に発現した。「日産自動車が、西ドイツ(当時)のフォルクスワーゲン(VW)グループと提携」というビッグニュースが伝えられ、「仲介役を果たしたのは大和証券」と報じられたのである。

 それまでこの種の大型の海外企業との提携は、「大手銀行が仲介」と相場が決まっていた。この仲介で中心的な役割を果たしたのは、当時の大和証券副社長(のちに副会長)の千野冝時氏(ちの・よしとき。1923〜2004年)だった。

 千野氏はニューヨーク支店長・外国部長を歴任した御仁で、「ユーロ円債(円建て外債)の第1号を手掛けた」「PER理論を日本に持ち込んだ」など国際派の先駆者として名を馳せた人物である。

 千野氏とVWの関係は1972年に始まる。証券大手各社による外国企業の東証上場誘致競争が熱を帯び始めた時期だった(73年に東証外国部創設)。千野氏はIBMとVWを手掛けた。IBMの上場は早々に実現(現在は上場廃止)。だがVWに関しては、東証外国部上場の痕跡はない。千野氏は失敗したのか?

 直接問う機会があった。「上場に関してはVWの国際戦略で、端から脇に置いた」としたあと、千野氏はこう言い及んだ。「1980年の11月7日だったと記憶しているが……、僕がVWの代理人として当時の日産の石原俊社長と会った。提携に向けた第1回目の交渉の使者としてね」

野村證券は「ノルマ証券」?

 戦後の証券営業を語る際に素通りできないのが、「野村證券=ノルマ証券」である。背景には大蔵省(現・財務省)の、「自己売買でなく、ブローカー(仲介)業務を収益の主軸にとする」という行政指導があった。

 こんな事実が、いまなお語り草として残っている。

 和光証券(現・みずほ証券)の前身である大井証券が、大井治社長の発案によるブローカー収益拡大策として「(企業に)投信を大量に買ってもらうには、当該企業の株をうちが市場で買って投信に組み入れる、と約束するのが最も手っ取り早い」とする方策を執った。

 名案ではあった。企業にすれば、大井証券が投信の組み入れ用に相応の株を仕込んでくれれば、浮動株が少なくなる。浮動株が減少すれば株価も安定し、株価の底が固まり、投資家の人気も高まる。当時、大井証券はブローカー営業で大手4社に迫ろうかという勢いを見せた。

 だが冷静に考えれば、これは常に爆弾を抱えているようなもの。相場の下落傾向が強まった時には、「早々の利食いを」という適切な処置がとれない。「貴社の株を投信に組み入れる」という条件で投信を買ってもらった以上、売り逃げができなくなってしまったのだ。

 自ら招いたこの流れの中で、大井証券は赤字転落・行き詰まりという状況を余儀なくされていった。

 大井証券の奇策(?)に対し、「ブローカー営業で」という大蔵省の指示に真っ向勝負で挑んだのが野村證券だった。1960年から62年のことである。

 ある日、大阪の証券会社の社長が営業担当の役員・部門長を一同に集め、こう命じた。「(株式の)営業マンは1か月に1人平均30万株の注文を取ってくること」

 東証の出来高が1億株を超えていない時代である。大方のサラリーマンが取引する株の量は、1000株。営業マンは日々10人から注文を取らなくてはならない。役員の中からも「いくらなんでも極端すぎる」という反論が出た。対して社長は、こう言い返した。

 「君らだって知っているはずだ。野村の営業マンが1か月200万株以上の予算(ノルマ)を背負っていることを」

 そんな野村證券は数年来、「脱ノルマ営業」の方針を打ち出している。久方ぶりに、兜町の雀荘に夜半に出かけてみた。昔なじみの店主が耳打ちする。「5つの雀卓を囲んでいるのは、みんな野村の連中。『数字にならないノルマを背負わされているから、早い時間なんか来られない』と言っているよ」

[執筆者]千葉 明
[ちば・あきら]東京証券取引所の記者クラブ(通称・兜倶楽部)の詰め記者を振り出しに、40年以上にわたり、経済・金融・ビジネスの現場を取材。現在は執筆活動のほか、講演活動も精力的に行う。『野村證券・企業部』『ザ・ノンバンク』『円闘』など著書多数。
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