為替介入は予想できない事態を招く… 歴史が教えてくれていること
《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》
6月30日の円相場が対米ドルで一時145円台をつけたことを受けて、鈴木俊一財務相は「急速で一方的な動きもみられる。行き過ぎた動きがあれば適切に対応する」と円買い介入警報を口にした。周知の通り政府・日銀は2022年9月22日、1ドル=145円90銭をつけた後に円買い・ドル売りの為替介入に踏み切っている。
歴史も教えているように、為替動向は想定外の経済(株式)動向に繋がりかねない。
今回、この原稿を書きたいと考えたのは、二人の御仁の訃報に接したのが契機である。一人は元・経済同友会代表幹事で「財界屈指の論客」と評された、ウシオ電機の創業者、牛尾治朗氏。もう一人はプラザ合意時の財務官、大場智満氏(のちに国際金融情報センター理事長)。
拙著『円闘』(日本実業出版社刊)は戦後の円の歴史を扱った一冊だが、御両者には、この取材で大変ご厄介になった。まずは、時の為政者に正論を堂々と吐いた牛尾氏について。
政治と円高
円が変動相場制に移行後初めて対米ドルで100円割れとなったのは、1994年6月下旬だった。まずニューヨーク外為市場で21日、99円85銭まで円が買われた。そして27日の東京外為市場で99円50銭を付けた。
円高の背景は、92年後半のジョージ・ブッシュ(共和党)とビル・クリントン(民主党)の大統領選挙に求められる。時間の経過とともに、「変化」を前面に押し立てていたクリントンの優勢が色濃くなっていった。
そんなクリントンが掲げていた最重点政策の一つが、NAFTA(北米自由貿易協定)の実現だった。選挙期間中、「NAFTAには、日本を除くアジア諸国の参加を求めることも視野に入れている」とまで言い放った。外為市場では「クリントン大統領実現で日本の黒字叩きが加速する」とし、ジリジリと円高が進んで行った。
そして93年4月、クリントン大統領は時の首相・宮澤喜一をいわゆる「日米包括経済協議」(日米間の貿易不均衡是正のための協議会)の設立で押し切った。
ところが、この年7月の衆議院議員選挙で、自民党の分裂を契機に55年体制(自民党単独政権)は崩壊した。複数の新党が生まれ、それらが旧保守体制の対立軸として呉越同舟の非自民・非共産連立政権を生みだした。代表(総理)の座に就いたのは、日本新党党首の細川護熙だ。
クリントンは細川に対し日本包括経済協議の詰めとして、「(日本)市場への外国製品の参入度合いをはかるための『客観基準』の導入」を要請した。だが協議後の共同記者会見では、「中身のない合意なら、ないほうがましだ」と言い放った。それに対して細川は「玉虫色の決着は誤解の種」と返し、こうも言い切った。「出来ないことは出来ないと率直に認め合うのが、大人の関係だ」
事実上の交渉決裂。直後から円高が進んだ。国内世論は割れた。
記者会見の直後、私は、当時ウシオ電機会長だった牛尾氏に意見を求めた。牛尾氏は、次のように語ってくれた。
「会談に先立ち大統領経済補佐官やUSR副代表など大物が来日した。彼らは『今回の会談はこれまでの日米関係を総括するための一つの区切りだ。同時に新しい関係を構築するための幕開けの会談だ』と口を揃えていた。日本側もそのあたりは百も承知で臨んだはずなのに……。
いま日本が肝に銘じておくべきなのは、成熟化とグローバル化だ。成熟化した日本経済が生産型から消費型にシフトするのは不可避の歴史だ。並行して市場の開放に象徴されるグローバル化も徹底して進めなくてはならい。でなければ日本は世界中を敵にまわす。グローバル化を促すために大事なのは、内政より外政が優先するということだ。世界の要請をのむ。そのうえでその負担をどうやって賄っていくかを国内で検討する。これがいま必要な政治だ。なのに……
相手がある提案をしてきた。それに乗れないというのなら対案、例えば3年以内に国際収支の黒字額をGDPの2%以内に収める努力をすると言い、努力するのが大人の関係というものだ。ただただNOでは、単なる駄々っ子としか言いようがない」
改めて、牛尾治朗氏の死を悼む。
誰も予想しなかった円高
元財務官の大場智満氏が5月11日に逝去されていた。読売新聞は「プラザ合意に尽力」とする見出しで訃報を伝えた。
ここで改めて「プラザ合意とは」「その背景とは」を記すつもりはない。しかし一介の記者として国際金融情報センター理事長に転じた大場氏から聞いた、プラザ合意への道筋──「自分もまさか、あそこまで円高が進むとは想像すらし得なかった」とした驚きの言葉が忘れられない。
プラザ合意に至る具体的な道程の入り口となったのは、1983年に米ウィリアムズバーグ(バージニア州)で開かれた「先進国首脳会議」だった。「為替相場の見直しが必要ではないか」という当時のフランス大統領ミッテランの提案で、(先進国蔵相・中央銀行総裁の)代理会議で「ドル安是正・先進国(米国)通貨協調買い」の議論が進められた。代理会議の日本代表が大場氏だった。
以下は大場氏から聞いた内容である(拙著『円闘』より)。
「検討の当初は、米国側は為替市場への協調介入に懐疑的だった。一変したのは85年の初めに米国に、ベーカー財務長官・マルフォード財務次官体制が誕生してからだった。これを機にしてマクロ経済面での政策協調と合わせ、為替市場介入も『不均衡是正の一方の有力な手段』とする方向で、話は概ね順調に進んでいった。
大蔵省にも『円は過小評価されている』という思いがあったから、ある程度の円相場の上昇は当然という考えで検討の場に臨んでいた。個人的には205円前後まで、つまり15%程度の上昇は仕方ないと考えていた」
こうした事前交渉のうえで、プラザ合意は実現された。だが「合意」後のドル売り先進国通貨買いについては当時、「介入期間は最低6週間。規模は180億ドル。日米欧で3分の1ずつ負担する」という覚書が交わされていたとされた。大場氏はこの件には肯定も否定もしなかったが、代わりにこう言った。
「あれほど一気にドル安(円高)が進んでしまうとは……我々の誰も予想しなかったことは、間違いない」
プラザ合意の舞台裏で演出した各国の通貨マフィアにも、現実の展開は想定外以外なにものでもなかった。1985年11月に200円35銭まで上昇した円は、翌86年7月には152円90銭に。そして「ドル高修正の目的は達した」と各国が合意のうえで発した「ルーブル合意」(87年2月)後も、88年11月25日の120円80銭まで駆け上がっていった。
円高不況に晒された日本が相次いで公定歩合の引き下げを実施し、出現した大金融緩和がその後「バブル経済」を引き起こしたことは断るまでもない。
やはり、為替介入というのは予想できない事態を招くものなのですね。合掌。