日銀の為替介入で相場はどうなるか? 歴史が教えてくれることは…
《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》
日銀が24年ぶりの為替介入
9月22日夕刻、政府・日銀が24年ぶりに「円買い・米ドル売り」の為替介入に踏み切った。これに対してアメリカ財務省は「理解する」としながらも、「協調介入」は否定。これを受け、22日のニューヨーク市場では一時、1ドル=140円余の水準まで5円程度の円高となった。が、介入効果が一巡すると142円前半の水準で引け、23日は143円台前半で終了した。
「24年前の為替介入」とは、1998年4月10日に始まった「日米協調介入」を指す。月中平均値で1月には129.45円だった円相場は、4月時点で131.66円という円安の推移を示していた。
介入説はあった。だが、個人的には少なくとも「協調介入」には否定的だった。当時のアメリカは景気回復基調にあり、FRBは金融引き締め政策をとっていたからだ。しかし「ミスター円」こと財務省財務官(当時)の榊原英資氏は、強力な陣頭指揮をとる。4月10日には、2兆6000億円という当時としては過去最高額のドル売り・円買いが実施された。
だが結果として、円安の進行を止めることはできなかった。同年8月には、1ドル=147円台まで進んでいる。
240円→120円を実現した「プラザ合意」
今回の為替介入に接して、1985年の「プラザ合意」前後の出来事が頭の中を駆け巡った。
大統領として2期目を迎えたレーガン政権は、いわゆる「レーガノミクス」の失政で「双子の赤字(財政赤字・貿易赤字)」に晒された。対して、第2次オイルショックを切り抜けた日本経済は、1980年には一時9%まで引き上げていた公定歩合(当時の政策金利)を、1984年には5.58%に引き下げていた。一転して、ハイテク商品を軸とした輸出攻勢に転じていたのである。
アメリカ国内には次第に「反日ムード」が、改めて盛り上がっていった。世論に影響力を持つ著名人の発言が、相次いだ。政治ジャーナリストのセオドア・ホワイトが著書『日本との新しい貿易戦争』で、「日本は太平洋戦争を、貿易で継続している」と主張。
現代経営学の創始者とされるピーター・ドラッカーも、「日本の貿易は敵対的だ」と断じた。「日本特殊論者」として知られていたジェームズ・ウォルフレンにいたっては、「日本には自由主義、市場経済はない」と言い放った。
そうした状況下で、1985年9月27日にニューヨークのプラザホテルで開催された先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)において、「プラザ合意」が発表された。
ひとくちに言えば「ドル高是正・ドル安容認・各国によるドル売り協調介入の実施」である。会議後の声明文には「為替レートが、対外不均衡の調整に役割を果たすべきである」「主要非ドル通貨の対ドル・レートの秩序ある上昇を望む」と記された。主要非ドル通貨とは、「円」「マルク」を指していた。
この合意・声明が、直前には1ドル=240円水準だった円相場を、アッという間に120円台の円高へと牽引する号砲となった。
誰も予想しなかった急激な円高
実はプラザ合意には、前章があった。1983年に米バージニア州で開かれた先進国蔵相・中央銀行総裁の「代理会議」だ。フランスのミッテラン大統領(当時)の、「為替相場の見直しが必要ではないか」という提案で開催された。日本からは当時の大蔵省財務官・大場智満氏(のちに、国際金融情報センター理事長)が参加した。ここから記すことは後日、大場氏から耳にした話である。
「検討の当初は、アメリカ側は為替市場への協調介入には懐疑的だった。一変したのは1985年の初めに、ベーカー財務長官・マルフォード財務次官体制が敷かれてからだった。マクロ経済の政策協調と合わせ、市場介入も『不均衡是正』の一方の有力な手段とする方向で、話は進んでいった。
自分は大蔵省に『円は過小評価されている』という思いがあったことを承知していたから、ある程度の円相場の上昇は当然という考えで、検討の場に臨んでいた。具体的には205円前後まで、15%程度の円の上昇は仕方がないと考えていた」
こうした事前協議を経て、合意は実現したのだった。
プラザ合意では各国間に、「介入期間は最低6週間。介入規模180億ドル。日米欧で3分の1ずつ負担する」という覚書があったとされた。大場氏に問うたところ肯定も否定もしなかったが、代わりに、こう語った。「あれほど一気にドル安(円高)が進もうとは、我々の誰もが予想しなかったことは間違いない」
ドル下落がバブルを引き起こした
各国の通貨マフィアにして予想し得なかったことは、なぜ起きたのか。
日本の「円高不況」(GDPの実質成長率は前年の4.7%から2.7%に急降下)もあり、1986年には円相場は160円から170円台で落ち着くかに見えた。それを受けてか、1987年2月にはG7の間で、「ドル高修正の目的は達した」とする「ルーブル合意」が出された。にもかかわらず、円は再び猛烈な勢いで駆け上がった。
ここで「予想外」の出来事が発現した。アメリカの金利上昇である。金利が上がれば債券価格は下落する。金利が下落傾向のうちはドル安による為替差損も債券価格の上昇でカバーできるから、米国債投資は減らない。だがドル安・債券安(金利高)になると、米国債投資=ドル買いは減少に転じる。ドル安スパイラルを加速させてしまったのである。
この予想外のドル下落は、日本経済をしてバブルに引き込むトリガーともなった。
急激な円高で、輸出産業は大打撃を受けた。円高不況に対し日本は「大型財政出動」「金融緩和」で対峙した。俗に言う『前川リポート』の断行。1986年4月、時の中曽根康弘首相は私的顧問機関を設立し、座長には前日銀総裁の前川春雄氏を据えた。そして1987年4月にまとめられ、提言されたのが前川リポートである。
具体的には、円高不況対策として、公定歩合を大幅に引き下げ(1987年に当時としては史上最低水準の2.50%まで引き下げ)、財政出動を加速させた。金の流れが急激に膨らみ、結果……。
「つくられた相場」の行く末は?
今回の「円買い」為替介入を窺わせる政府筋の発言の入り口として、鈴木俊一財務大臣の「投機筋による過ぎた円安相場進行には、断固たる措置を講じる」があった。個人的には、株式にせよ為替にせよ「投資も投機も付きもの」と考えるゆえ、これには違和感を覚えるが。
さて、今回の円買い・ドル売り介入が伝えられた直後、時事通信がこんな記事を配信している。「円買い介入の原資となる日本の外貨準備は8月末時点で約1兆2920億ドル(約185兆円)だが、その8割を占めるのが米国債などの証券だ。米国債の売却のハードルが高く、即座に活用できるのは現預金として保有している1361億ドル(約20兆円)とみられる」
一方、「大幅な金融緩和策の継続」「当面、利上げはない」と黒田東彦日銀総裁は宣言している。
介入により発現する「つくられた相場」は、為替も株も「想定外の流れを生み出す」ことを過去の事例は教えているとも言えるが、24年ぶりの為替介入の結果は時間の経過を見守るしかない。
※本記事は再掲載です(初出:2022年9月26日)