かの中国ファンド誕生秘話 旅立った野村證券元社長が遺した功績
《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》
野村證券の元社長、田淵義久が91歳で逝去した。伝えるメディアの大方は、「1991年の損失補填など証券不祥事で社長を退いた」「97年の総会屋への利益供与で職を辞した」とする見出しを振った。事実ゆえに異論はない。
だが私は、あの世に向かう田淵への土産に、「功」の部分も書き残しておきたいと思う。
かの中国ファンドの生みの親
1980年1月に「証券会社の預金」と呼ばれた「中期国債ファンド(通称・中国〈ちゅうこく〉ファンド)」が、銀行界の猛烈な反対のなか、野村證券から発売された。早々に大手証券各社が追随し、ブームを巻き起こした。
この中国ファンドが生み出された道筋は、2通りあった。そのうちの1本の道を先頭に立って登ったのが、当時取締役営業企画部長の田淵だった。
キッカケは1978年6月発行の、中期国債である。償還期間10年の国債を発行して借金を繰り返してきた政府は、多額の借金返済の時期を迎えていた。しかし返済財源が乏しかった。そこで新規に発行されたのが、非上場の3年物国債。
公募入札にあたり、野村證券の公社債部は「国策だ。多少イロをつけなくてはなるまい。だが仮に6.8%の利回りで100億円仕込んでも、半分は売れ残って抱え込むことになるだろう」と消極的だった。入札ものの金融商品には、経過利息や締切日など購入上わずらわしい問題が多々あったからだ。
ところが、応札と同時に営業現場に下ろされた100億円の中期国債は、わずか半日で完売してしまったのだった。「なぜだ」と驚いた田淵は、徹底して調べることを命じた。その結果を聞き、二度驚いた。日頃から「国債はいいけど、10年物はいかにも長すぎる」と耳にしていた現場の女性スタッフたちは、「3年物なら、銀行の定期預金との比較で十分に売れる」と待ち構えていたのだった。
「マーケットに教えられた。しかし、諸々の問題がある中期国債を本当の売れ筋にするには……」。私は田淵の口から以下の話を聞かされた。
日本版MMF誕生への道
田淵はこの年の1月から営業企画部のスタッフを中心に、ある研究会をスタートさせていた。背景には、銀行がCD(譲渡性預金)を開発・販売する動きが濃厚になっていたことがある。第三者に譲渡しやすい、無記名の定期預金証書である。「証券会社も、CDに対峙しうる短期金融商品を手にしなくてはならない。どんな商品が適当か」を見出すため、アメリカの短期金融証券を検討する研究会だった。
結論に至るまでにさして時間はかからなかった。当時アメリカで人気が出始めていた、メリルリンチ証券の「MMF(マネー・マーケット・ファンド)」が有力候補となった。だが大きな壁が待ち構えていた。短期金融市場(商品)の差異だ。
当時のアメリカの短期金融市場は資産残高70兆円を超え、金融資産全体の8.4%に及んでいた。対して日本は、コール・手形・現先の3市場を合わせて残高は11兆円強、金融資産残高全体の2.5%に過ぎなかった。日本版MMFを組成するには「コマ不足」だ。1979年2月、検討会は立ち往生してしまった。
そんな大きな壁の存在とぶち当たるのを待ち構えていたように、田淵は言った。
「日本版MMFの運用対象の主軸を、中期国債にしたらどうか」。その上で「非上場債ゆえに、中期国債が価格・利回りのうえでいかに安定性が高いか」のシミュレーションを示して、「中期国債を活かしたファンドを組成すれば、日本版MMFも決して無理ではない。大蔵省も国の都合で中期国債を出した以上、証券版普通預金を頭から批判することもできまい」と言い放った。
田淵が敷いたこうした流れが、もう一つの道を登ってきた当時の副社長、伊藤正則が率いる登山者たちと合流し「中期国債ファンド」は生み出されたのだった。
今も忘れられない笑顔
伊藤が中心になり立ち上げた検討会の狙いも、銀行のCD発売に対する対応策だった。
伊藤は検討会の結論が「MMF」となることを見越していた。討議の内容は既に詳細に揃えてあった手元のMMFの資料そのものの検討で、スタッフをアメリカに派遣し、MMFの実態調査をした。そして当時の社長・北裏喜一郎など限られた役員にだけ報告し、日本版MMFを「短期証券ファンド」として大蔵省に持ち込んだ。
結果は「ノー」。壁にぶち当たった。悩む伊藤に、同じ検討会のメンバーで当時「野村の知恵袋」と認められた1歳上の副社長、志茂明から呼び出しがかかった。「実は社内にもう一つMMFの実現を視野に検討しているグループがある。そこが導き出した結論が中期国債を運用の主軸に据えるという方法なんだ」
志茂の箴言で、2つのグループは1つになった。そして1979年4月早々、田淵流MMFは大蔵省に持ち込まれた。
田淵はのちにこう語った。「(大蔵省の担当者は)金融の自由化という大きな時代の流れに、前向きな姿勢だった。それだけに、大前提になるファンドの健全性、銀行の1年物定期預金並みの安定した分配金に関して、金利が上昇過程の折り・下降傾向のとき・高原状態にある際にどのくらいの幅を維持できるか……。結局、金利状況別のシミュレーションだけで数百パターンが求められた」
そうこうしているうちに、証券版普通預金(MMF)創設の動きは銀行界も知るところとなった。猛然とした反発が起こる。大蔵省から「これだけは呑んでくれ」と提示されたのは、「(MMFは)投資後30日は原則、解約を認めない。解約の場合は手数料を必要とする」だった。
呑んだ。「落としどころについても、志茂さんからあらかじめ指示されていたから」。社長室でニコニコ顔で話す田淵の姿が、私は今も忘れられない。