「山一を打倒せよ」 主幹事証券数ナンバーワンの座をもぎとった野村證券の男たち

千葉 明
2022年8月13日 12時00分

metamorworks/Adobe Stock

《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》

「掃除機」と呼ばれた証券営業マン

 豊田善一(とよだ・ぜんいち。1924〜2004年)。野村證券元副社長にして、国際証券(現・三菱UFJモルガンスタンレー証券)元社長・会長、KOBE証券(現・インヴァスト証券)元会長。「最後の証券営業マン」と称された人物である。

 拙著『野村證券・企業部』(かんき出版・1984年)は、独特の組織だった野村證券の企業部を扱った一冊だ。野村證券企業部は、同社を「ガリバー」と呼ばれる存在にまで仕上げた元社長・会長の田淵節也氏(たぶち・せつや。19232008年)と豊田氏との絶妙なタッグで創りだされた。

 上梓に際し、当時副社長として大阪代表を務めていた豊田氏に1週間ほど張り付いた。その折に耳にした2つの逸話が、いまだにハッキリと記憶に残っている。

 ひとつは東京証券取引所の歴史。それも、公の文書では確認できない史実である。豊田氏は、戦後の東証再開時にはすでに野村證券に籍を置いていた。

 「東証が再開されたのは昭和24年(1949年)4月1日、とされている。間違ってはいません。上場銘柄数は戦前に取引されていたのと同じ(495社)。確かに間違いではないんだけど……」

 「実は終戦直後から、兜町や北浜では戦争帰りの名うての証券マンが、戦前銘柄を対象に組織的な集団売買をすでにやっていた。自分も途中から参加した。でも所詮は、当時は素人に毛が生えたような証券マン。先輩に『お前は宝くじでも売っとけ』と言われて、本当に宝くじを売っていたんですよ」

 「北浜」とは、大阪証券取引所(現・大阪取引所)の所在地である大阪市中央区北浜のこと。西の「兜町」だ。

 もうひとつは、豊田氏に関する内緒話。企業部の手で上場を果たした会社の社長が、「ここから先は、豊田さんには絶対に内緒」と釘を刺しながら語ってくれた。

 その人物とは、システムインテグレーター(システム開発・運用の代行を手掛ける業者)のはしりとされるCSK(現・SCSK)創業社長の大川功氏(おおかわ・いさお。1926〜2001年)。CSKの上場は1982年だ。

 夜のとばりが下りる頃、週に1〜2回は必ず、豊田氏から大川氏の自宅に「ご主人はお戻りでしょうか?」との電話が入る。「この声は……」と気づいた奥方の返答は、「今日は遅いと言うてました」が常。だが、どんな細工も豊田氏には通じなかったという。

 「もう帰っているだろう」と見定めた時間になると、豊田氏は大川宅の近くまで車で乗りつけ、100メートル余り手前で車を降りて、閑静な住宅街を歩いてやってくる。その靴音が、家の中まで聞こえてくる。大川氏のほうが、家の裏口から逃げ出していたという。

 「なんとも言い難い。あんな証券営業マン、後にも先にも出会ったことがない……豊田さんにだけは勝てんわ」。大川氏はそう言って、大阪の企業が呼んでいたという渾名を明かした。「掃除機。豊田氏が訪ねてきた後には、チリほどの小さな仕事すら残っていない。全て吸い上げていってしまうから」

「法人の山一」を打倒せよ

 証券会社にとっての「打ち出の小槌」は、主幹事証券の座とされる。企業が有価証券を新たに売り出す際の募集・引き受け・販売、新規公開時の新株の引き受け・販売を手掛ける「親玉」だ。

 戦前戦後にわたり、その手数料という儲けを最も多く手にしていた親玉は、「法人の山一」と称された山一證券だった。山一の法人マンは列挙したらきりがないが、芙蓉・三菱・松下電産・東急電鉄・小田急電鉄・新日鐵等々の主要企業グループで財務運用の代理業的な仕事をしていた。

 野村證券は2位の座に甘んじていた。野村の戦後の経営者たちは「山一打倒」と取り組んだが、歴史的な積み重ねを一朝一夕に崩すことは容易でなかった。

 実は1971年に設立された企業部は、そんな「法人の山一」を切り崩すことを目的に設けられた。だがそれは、トップの裁定で決まったのではない。「創るべき」で一致した当時の常務・田淵氏と取締役・豊田氏が一計を案じた結果だった。

 豊田氏によれば、福音電機(のちのパイオニア)を事業法人部の課長として担当していた頃(1961年)から思いは膨らんでいたという。

 「東電で億単位の債券を商った後でドブ板を踏むような土下座営業をする、といったことを繰り返していると、中堅中小企業を発掘する公開営業はどうしても手抜きになっていく。それじゃ山一に勝てない」

 それでも、野村を主幹事に公開する腹を括ってくれていた福音電機から、上場前の80円・85円といった第三者割当増資をとるために足繁く通った。「『豊田の営業は云々』という陰口は知っていたが、根は臆病でね。大口営業にかまけているうちに、他社に主幹事を横取りされないかと不安で」

 周知の通り、山一證券は199711月、膨大な簿外債務が原因で経営破綻し、自主廃業に追い込まれた。その背景には身に沁みついた「悪習」があった。企業から直接資金を預かり、一任勘定で運用する「ファンド営業」から脱することが出来なかったのだ。

 バブル崩壊後の株価急落時にも続けられ、膨大な損失を抱え込んだ。斯界で言うところの「飛ばし」方式で、粉飾決算を重ねた(一任勘定取引で生じた損失が表面化しないように、決算期の異なる関連子会社や海外現地法人などの企業間で、含み損のある有価証券を転売することを指す)。

 最後の社長となった野澤正平氏が涙ながらに「社員が悪いのではないです」と語ったた姿はいまだに脳裏に焼き付いているが……要は、山一の悪しき体質が引き起こした破綻だった。

「恫喝」で誕生した企業部

 高度成長期、中堅企業の数が飛躍的に増えた。取締役事業法人部長だった豊田善一の焦りは日々増していった。

 「大企業相手の法人営業で金を稼ぎながら、昨日よりも今日と増え続ける上場予備軍の中堅企業を発掘し育成するのはもう限界だ。専門の別動隊を作り、腰を据えてかからなくては駄目だ。でなくては主幹事数も伸びない」

 直接の上司だった田淵節也に思いをぶつけると、即座に「同感だ。自分も必要性を感じていたところだ」としたうえで、こう言葉をつないだ。「ただね、いまの状態でもなんとかやってきている。積極的な支持が得られるかといえば正直疑問だ。ここはひとつ作戦を練らなくてはいかんぞ」

 田淵が考え出した作戦というのは、表現を選ばずに言えば、豊田の営業マンとしての力を利用した「恫喝作戦」だった。常務会でひととおり、中堅企業を対象とした公開専門部隊が必要かを説き、ひと息入れて、田淵はこう言い及んだのだった。

 「この件につきましては、豊田善一も強く設立を主張しているところでありまして、彼は私にこう申しております。『もし認められないのなら、今後、新規上場に関して、当社が絶対的な優位に立てる保証は担当者としてもちかねます』と。いかがでしょうか」

 田淵の説得もさることながら、ある出席者の発言も効いた。

 「役員専用車の運転手から、こんな話を聞いたことがある。終業時間後に数社の会社を回り、さらにお客さんと飲食を共にしたあと車に乗り込んだ瞬間、豊田はグッスリそのまま寝入ってしまった。家の前まで来て『着きました』と声をかけたら、『おっ、ここは(三菱)重工か』と。そんな豊田の言葉を聞き逃しにはできない」

 こうして、野村證券企業部は1971年に発足した。

▽つづく
「うちのメインバンクは、野村證券です」 有望企業を探し育てた「光源氏」のあの手この手

[執筆者]千葉 明
[ちば・あきら]東京証券取引所の記者クラブ(通称・兜倶楽部)の詰め記者を振り出しに、40年以上にわたり、経済・金融・ビジネスの現場を取材。現在は執筆活動のほか、講演活動も精力的に行う。『野村證券・企業部』『ザ・ノンバンク』『円闘』など著書多数。
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