「うちのメインバンクは、野村證券です」 有望企業を探し育てた「光源氏」のあの手この手
《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》
野村證券企業部は「光源氏」だった
1971年に発足した野村證券企業部。主幹事証券としてナンバーワンの座を「法人の山一」からもぎとることを目的に生まれた。
主幹事証券とは、企業が有価証券を新たに売り出す際の募集・引き受け・販売、新規公開時の新株の引き受け・販売を手掛ける「親玉」だ。野村の経営者たちは「山一打倒」と取り組んだが、歴史的な積み重ねを一朝一夕に崩すことは容易でなかった。
だが、「中堅中小企業相手の公開営業を専門にやる部署が不可欠だ」という思いで一致した2人の人物、野村を「ガリバー」と呼ばれる存在にまで仕上げた田淵節也氏と「最後の証券営業マン」と称された豊田善一氏の絶妙なタッグにより、企業部が創りだされた。
拙著『野村證券・企業部』(かんき出版・1984年)は、独特の組織だった企業部を扱った一冊だ。
(参照)「山一を打倒せよ」 主幹事証券数ナンバーワンの座をもぎとった野村證券の男たち
企業部の初代部長に着任したのは、大森康彦氏(おおもり・やすひこ。のちに日本警備保障〈現・セコム〉副社長、日本ソフトバンク〈現・ソフトバンク〉社長・会長)。
大森氏は当時、アメリカで企業金融の勉強をして来いと命じられ、ゴールドマンサックスに送り込まれていた。いまでは日本でも当たり前になっているコマーシャルペーパー(CP)などを勉強。新設される部署の初代部長と聞いていざ帰国してみたら総勢5名の部署で「詐欺にあったような気分だった」と語った。
企業部の狙いについては、こう説明してくれた。「直接聞いたわけじゃないが、田淵さんは『企業部は、光源氏なのだ』と言ったそうだ。はじめは呑み込めず首を捻るばかりだったが、いまになってみるとナルホドと納得がいくね」
光源氏(ひかるげんじ)。ご存じ、平安時代の女官・紫式部が書いた『源氏物語』の主人公だ。その詳細はここでは省くが、要するに、「光源氏が目をとめた幼名・紫上(のちの若紫)を、あの手この手で自分好みの女性に育て上げて堪能する」というストーリー。
「野村證券が光源氏、若紫が上場予備軍という意味だったんだろうね」と、大森氏はポツリと言った。
有望な高校球児を、甲子園へ
野村證券企業部は「これは」と思う上場予備軍をどう探し出し、どう育てていったのか? 特筆すべき施策をいくつか紹介する
・魚群探知機
「わずかな員数で中堅企業の一本釣りをしていたんでは、埒が明きません。せめて、魚群らしきものを探知する方法を用意しないと」
大森氏の苦言(というか箴言)が引き金になり、田淵氏が動いた。グループの野村総研に対して、「企業部に協力し、5年後10年後に大きく花開く業種を絞り込んでくれ」と命じた。
計8名のチームが組まれ、約半年をかけて「スーパー」「医療機器」「ハウジング」「クレジット」「コンピューター関連」などの業種が選択された。当時の野村には100余りの支店があり、1500人程度の中堅企業を担当する営業マンがいた。彼らを公開営業に活かそうとしたわけだ。
具体的には、花開きそうな業種の有力企業に向けた「助言システム」が創られた。「決算に関する助言」「株価算定に関する助言」「持ち株制度に関する助言」「成長に伴う課題への助言」「財務からみた経営構造に関する助言」……等々を、「診断期」「処方箋期」「治療期」に分けて。
この助言システムをもとに、支店営業マンへの研修会が継続して行われた。
・プレジデントクラブ
上場間もない企業や上場予備軍企業の、ビジネスでのつながりや新規取引による事業拡大のフォローを意図した、企業集団の組織化だ。
手元に、1977年12月時点の参加企業一覧がある。大塚製薬、忠実屋(のちにダイエーに吸収合併)、すかいらーく、西川産業、丹青社、マブチモーター、トーヨーサッシなど39社が名を連ねている。
・日本合同ファイナンス
日本最大のベンチャーキャピタル(現・ジャフコ)が発足したのは1973年4月。野村證券グループ各社に加え、当時の日本生命・三和銀行・三井銀行など57の金融機関の出資で設立された。野村證券常務だった今原禎治氏(のちに日本アジア投資社長)が社長を担い、わずか7年後に上場を果たしている。
企業部との関係について、今原氏はこんな明解な言葉で説明した。「うちは、野球に例えれば小中学生段階で“輝”を感じさせる子どもに、バットやグローブを与えるなどして育てる。そうして育った選手が高校野球で活躍するのをフォローするのが、企業部だ」
「うちのメインバンクは、野村證券です」
企業部設立から4年目の1975年12月。当時アパレル業界首位の東京スタイル(現・TSIホールディングス)が東証2部に上場した。大森氏によれば「光源氏と若柴の関係というより、かなり出来上がっていた会社だった」。主幹事証券の座も、大手4社が競り合っているような状況だった。
野村はその競り合いに勝ったが、当時専務だった高野義雄氏(のちの社長)が上場記者会見で放った一言は、その後の企業部にとって金科玉条の一言となり、行動の支えとなった。
東京スタイルの公募価格は1520円。60億円余りのプレミアムを得て、30億円余りの借金を返済し、30億円近い運転資金を懐に入れていた。これについてある記者から、「今後も無借金経営を続けていく方針か?」という質問が挙がった。
大森氏らをして「やった!」と叫ばせたのは、「はい、無借金経営を継続するつもりです」とした後の高野氏の一言だった。「うちのメインバンクは、野村證券です」。翌日の全国紙には、この高野氏の発言がそのまま見出しとして踊った。
昨今、公正取引委員会から公募価格の設定を巡り「競争政策・独禁法上の課題の有無を検討する」という指摘が出ている。要は、初値後の値動きが急上昇するのは「公募価格の設定に問題があるからではないか?」という疑義だ。IPO人気相場への「?」論であり、主幹事証券に対する問題提起とも言える。
公開営業にも新しい潮流が起こっている。2021年にIPO企業の主幹事証券を担った証券会社の1位は、銀行統合により生まれたみずほ証券(30社)。野村證券は2位の28社。銀行系のSMBC日興証券(27社)にも追われている。
一方、幹事証券数に目を転じると、SBI証券(127社)、楽天証券(77社)、マネックス証券(68社)のネット証券が、野村證券の65社を上回っている。「ネット証券に口座を構えたほうが手数料などで割安」といった点が背景にあるとされる。
これもまた、兜町の「今昔」と言えよう。