円安の進行に思う「円相場と戦った経営者たち」 兜町が目撃した村田製作所とユニデンのその後

千葉 明
2022年9月16日 8時00分

Sergey Nivens/Adobe Stock

《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》

円安の進行に思う「円相場と日本企業」

 円安が進んでいる。とりわけ昨年来の円安進行は、株式市場を周知の通り大きく揺さぶる要因となっている。振り返ると2021年1月のドル円相場(月間平均)は103.70円。これが12月には113.62円。円安トレンドが明らかになり、今年に入って加速した。9月中旬で143円台半ば水準。

 だが、そうした円安進行の「何故」を書こうというわけではない。兜町に軸足を置いて「目」にし「耳」にした、「円相場と企業」2題を記す。

円建て輸出に踏み切った村田製作所

 日本が完全変動相場制に移行したのは、1973年2月。以降、円はじりじりとその水準を引き上げていった。1978年10〜12月期には平均値で190.48円と、200円を割り込む円高となった。明けて1979年はドルが幾分反発基調となったが、200円トビ台という状況だった。

 そんな1979年2月の某日のこと。セラミックコンデンサー(世界首位)を中軸にした電子部品大手の村田製作所で、“歴史的”(?)な経営会議が開かれた。参加者はライン部長と全役員。会議の提唱者はある若手部長だった。彼の提案した議題は、「輸出を円建てにすべきではないか」。

 村田製作所は当時、1965年の米国村田を皮切りにシンガポール・香港など海外の販社展開を積極化していた。海外部門の総売上高比率が25%に迫る状況だった。

 だが円高が進行。若手部長に対する経営会議の面々の7割が「ノー」という形勢。

  • 「弱くなっているとはいえ、輸出は基軸通貨のドルでやるのが筋だろう。円はまだローカル・カレンシーの域を出ていない」
  • 「円高と言ってもいまは一服状態。むしろ行き過ぎの修正が今後の流れではないか。現状程度の円高では、為替の変動もコストを大きく揺さぶることはないだろう」
  • 「円建てにシフトするということは、割高な円で仕入れた製品を割安な現地通貨で商わなくてはならない。ダンピング懸念、結果競争力を失う確率が高い。海外現法の経営を圧迫する」

 いずれも頷ける論である。午後1時に始まった会議もすでに3時間半近くに及び、論も出尽くした感が濃厚になった。その時、当時の米国村田の社長・茶之木太氏が意を決したようにこう語った。

 「円が高くなっているいま、円建てというのは海外の営業現場を預かるものとしては確かにきついしつらい。だが商品力を信じ、一層のコストダウンによる値下げを期待し、顧客に受け入れてもらえるように努力するのが、営業力というものではないかと思う」

 それまで黙って議論に聞き入っていた社長で創業者の村田昭氏が、大きく頷いた。そしてこう語り、実質的に議論を締めくくった。

 「内外にグループ経営を拡充していく、これは当社の絶対的な方向性だ。そのためにはグループ全社共通した価格意識を持たなくてはならない。海外での価格競争力に厳しさが出てきたら、グループ全体をあげてコストダウンに努める。これが、グループ経営の強さだろう。円建て輸出に踏み切ろう」

 2022年3月期、村田製作所は11.2%の増収、35.4%の営業増益、32.5%の最終増益(過去最高益を連続更新)と好調さを示した。そして、利益増に関し決算書類では、こう言及している──「生産高増加に伴い生産関連費用は増加しましたが、操業度益やコストダウン、円安効果などにより……」。

 コストダウン努力が継続的に図られていることが窺える。

ドル建て貿易を貫いたユニデン

 「完全変動制相場」への入り口は、1971年のいわゆる「ニクソンショック」だった。米大統領ニクソンは戦後の金融体制の軸だった1ドル=35オンスの「金・ドルの交換停止」策を打った。同年12月の先進10か国による「スミソニアン合意」では、「1ドル=38オンス」に引き下げられた。結果、円ドル相場は1ドル=360円から308円に引き上げられた。

 こうした流れに敏感に反応した中小企業経営者がいた。藤本秀朗氏。現・ユニデンホールディングスの創業者であり、元会長・社長である。初めて会った時、こうと聞かされた。「ニクソンショック、そしてスミソニアン合意。こりゃ、やばいと直感した。円高が進むことは間違いない。うちのような100%ドル建ての中小企業は、またたくまに利益が吹っ飛んじゃう。手をこまねいていたら、まさに座して死を待つだけ」

 ユニデンはユニ電子産業として1966年に設立(1974年にユニデンへ)。国内で生産した電話関連機器や無線通信機器を、ほぼ100%、アメリカを主体にした欧米で売っていた。そんなユニデンを取材したキッカケは「上場も視野に入れようかという企業が、ボーダレス化の道を歩み始めた。台湾に生産を全て移行しようとしている」という兜町情報だった。

 藤本氏に初めてお目にかかったのは、台湾の現地調査を進めていた1972年。「円高は必ず起こる、拍車がかかる。コストダウンで対応する以外にない。それには人件費の安い場所に生産拠点を移すほかに、うちのビジネスモデルを貫く方法はない。死ぬか生きるかの選択だ」。淡々とした語り口調だったが断定的な物言いだった。

 事実、完全変動相場制に移行した1973年には国内の生産拠点は全て閉鎖した。1974年には台湾工場での100%生産がスタートした。判断が間違いなかったことは、1986年に上場を果たせた点にも見て取れる。だが1988年には、今度はフィリピンに生産拠点を移行した。

 1980年代も後半入りする頃には、台湾経済は10余年前とは比べ物にならないくらいに拡大していた。ニュー台湾ドルは米ドルに対し、この間、3割がた値上がりしていた。人件費は10倍近くに跳ね上がっていた。ゆえのフィリピン移行だった。藤本氏はこう語った。

 「ドル建て貿易は崩れない。せっかく稼いだドルを割高な円に転換するのは損。割安な通貨に転換することで、設備投資ひとつにしてもぐんと有利になる。フィリピン・ペソがそうだった。同じ製品を日本に比べ10分の1の工賃で作ることができた。アメリカがフィリピンに与える最恵国関税の魅力も大きかった。日本でコードレスフォンを作りアメリカに輸出すると6.5%の関税がかかったが、フィリピン産はゼロだった」

 実は藤本氏はフィリピン進出と並行し、中国にも生産拠点を設営した。1989年、中国の国有企業への生産委託という形でまず乗り込んだ。その後、深圳市に総員5000人近い一大生産拠点を確立した。「1992年に鄧小平が経済特区を視察し、『豊かになるのもいいものだ』と発した一言に賭けた。中国の社会主義市場経済は後戻りしないと腹を括って、判断した」

 収益に波はあった。だが著名なゴルファーであるジャック・ニコラウスを使った「一か八かの大勝負」(藤本氏)のテレビCMで大フィーバーを巻き起こし、盤石な基盤を作った。

 そんな藤本氏が死去したのは今年1月(享年86)。詳細は記すまい。晩年の藤本氏は社長・会長職を解任された。そしてユニデンは、現体制同意の上で投資ファンドによるTOB・上場廃止の道を選んだ。だが、ボーダレス企業の道を駆け抜けた稀有な日本人実業家が藤本秀朗氏であることは、誰も否定しがたい事実である。

【問題】村田製作所の株価はこれから上がる? それとも下がる? プロトレーダーはどう見ているか

[執筆者]千葉 明
千葉 明
[ちば・あきら]東京証券取引所の記者クラブ(通称・兜倶楽部)の詰め記者を振り出しに、40年以上にわたり、経済・金融・ビジネスの現場を取材。現在は執筆活動のほか、講演活動も精力的に行う。『野村證券・企業部』『ザ・ノンバンク』『円闘』など著書多数。
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