いまも場立ちが残るニューヨーク証券取引所 喧噪の消えた兜町で思うこと

千葉 明
2024年1月18日 15時00分

《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》

ニューヨークに今も場立ちがいる理由

 火曜日から土曜日の朝は、日経新聞電子版の「マーケット」をクリックし、終えて間もないニューヨーク証券取引所(NYSE)のダウ平均株価の動向をチェックする。表示される画面に時折、場立ち(ばたち)の姿・顔が登場する。

「あれ、NYSEはまだ場立ち取引をやっていたのだっけ?」と、浅はかにも首を傾げる。

 NYSEも2020年3月に、全面的な電子商取引に移行している。新型コロナが猛威を振るい始めたことから、「取引フロアを全面封鎖した」ことが契機となり、場立ちもその姿を消した。しかし、いまはまた、場立ちの姿を確認できる。どういうことなのか。

 調べてみると、過去にもNYSEが全面封鎖された時期がある。1914年の第1次世界大戦、63年のケネディ大統領暗殺、2001年の同時多発テロ、そして、2012年に起きたハリケーン・サンディ災害時の4回だ。

 だが、そのいずれのときも、再開と同時に、場立ちたちは取引所に戻った。場立ちの数に厳しい員数制限が求められるようになったのは、戦後再開されたNYSEが本格的に稼働を開始した2005年だった。NYSEの取引形態が電子商取引に徐々に歩みを始めたのと並行する。そして、2020年3月に全面的な電子商取引に移行した。……が、場立ちの存在はいまだ目にできる。

 NYSEの歴史に詳しい外資系証券会社の支店長に聞いた。

「日本では現実問題として考えづらいけど、2018年にNYSEには創業226年目にして初の女性CEOが登場している。ステイシー・カニンガム氏(当時43歳)。そのカニンガム氏は、いわゆる場立ち出身の叩き上げ。その影響が大きいと言われている。いま、NYSEの商いは電子商取引が約9割、場立ちを介した出来高は約1割。彼女は場立ち商いを残した理由を『投資家の強い要望』と説明している」

 CEOはその後、2021年夏にリン・チーマン氏(当時45歳)が引き継いでいるが、カニンガム氏流が継承されている。電子商取引が確立した現在も「投資家の強い要望」として(かつ「セクハラ」の誹りを覚悟で記せばCEO職も女性に)引き継がれている。なんとも合理的、投資家との対話を重視するアメリカを感じるのは、私だけだろうか。

消えた日本の場立ちと、兜町の喧噪

 翻って、日本──。東京証券取引所(東証)に、場立ち取引は存在していない。旧東証の建て直しと新東証の出現と並行し、取引は100%が電子取引に移行した。場立ちの存在は完全に消えた(1999年4月30日に廃止)。

 旧東京証券取引所は、兜町のランドマークだった。いま、兜町のランドマークと称されるのは2021年8月24日に竣工した「KABUTO ONE(カブトワン)」。保有者で建て主の平和不動産では、「これまでも、これからも(兜町が)日本経済の起点であり続ける、という思いが託されている」(土本清幸社長)としている。

 地下2階・地上15階建て、高さ約84mのカブトワンの1階には、シンボルとして、株価動向を示す回転式の大型LEDディスプレイが配置されている。開所式に参加した証券関係者の何人かに印象を尋ねた。「時代ということなのだろうね」としながらも、「我々のような年配になると、兜町(シマ)は喧噪の街だったから、寂しさもあるよ」とする声が聞かれた。

「喧噪」の意図するところは、兜町には数多くの証券会社が本社・本店を構えていた(1988年には58社軒を連ねていた。現在では15社)。街のいたるところで、社章を胸につけた証券マンとすれ違った。そして東証の立会場内には、紺のブレザーを着込んだ場立ちの、怒声に近い売り買いの声が騒がしく交錯していたからである。多いときで、場立ちの数は2000人を超えていた。

 こんな声も耳にした。「場の雰囲気が好きでちょくちょく場内に下りたが、手振りで示す注文量を、よその会社の場立ちが『おい、多すぎるんじゃないか?』とミスを庇い合うことなんかも茶飯事だった。連帯感すら感じた。システム取引のほうが誤発注が増えるんじゃないかと懸念している」

 以前の記事で、兜町の鰻屋の話を記した。前場が好調な日は「後場も鰻上りになるように」と場立ちをはじめとした証券マンが鰻を食べるために駆け込んだ。店主は「自分には相場観なんてないから、翌日の仕入れ量に悩んだ」と回想したが、そんな鰻屋もいまは店を閉めている。

 昔の兜町への懐かしさは、ここで社会人生活をスタートした身としては消えない。だが、時代の流れに逆らうつもりは、毛頭ない。

東洋一のトレーディングルーム

 本稿の最後に、一人の人物を記しておく。元・三洋証券社長、土屋陽一。電子商取引の時代到来を確信し、力づくで(?)それをリードしようとした準大手証券に身を置いていた斯界の経営者だ。

 1988年5月、江東区塩浜に三洋証券のトレーディングセンターが建設された。当時の東証の立会所の約2倍。サッカー場がスッポリと入り込んでしまう広さだった。「東洋一のトレーディングルーム」と言われ、壁には巨大モニター。フロアには最新鋭のコンピュータ端末が3000台も並び、世界中の株式市場動向が常時映し出されていた。24時間取引に対応できるよう、仮眠室も備えられていた。

 土屋は、85年に創業者・土屋陽三郎の後を継ぎ、「来るべき世界同一・同時システム売買」の確信のもと、投資を惜しまなかった。「なぜ、いまそこまで……?」と聞いたことがある。答えは、「時間が証明してくれる」だった。

 しかしながら、結果として、その「時間」が災いした。東洋一のトレーディングルームが建てられた翌年、東京にはバブルの花が咲き乱れた。三洋証券は多額の先行投資・社員採用の急拡充に加えて、債務の保証先であるノンバンク子会社が抱える不良債権にジワジワと圧迫されていった。

 だが土屋は1990年の雑誌のインタビューで、囁かれていた「業績不振・合併説」「トレーディングセンター売却説」を一蹴し、コンピュータ投資の重要性を説いている。

 結果は1992年3月期から6期連続の赤字で、97年11月に会社更生法の適用を申請。証券会社が意図して倒産するのは、戦後初となった。時の流れは「たわやか」であってほしいと、つくづく思う。

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[執筆者]千葉 明
千葉 明
[ちば・あきら]東京証券取引所の記者クラブ(通称・兜倶楽部)の詰め記者を振り出しに、40年以上にわたり、経済・金融・ビジネスの現場を取材。現在は執筆活動のほか、講演活動も精力的に行う。『野村證券・企業部』『ザ・ノンバンク』『円闘』など著書多数。
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