「食われる立場は嫌」 激動の株式市場を駆け抜けた、西のラガーマンと東の猛者
《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》
「食われる立場は嫌」
大阪証券取引所(大証。現在は大阪取引所)の立役者の一人に、巽悟朗氏(たつみ・ごろう。1935〜2003年)がいる。
2000年に23年ぶりに民間から大証の理事長となり、翌年、株式会社化に伴い初代社長になった人物。ナスダック・ジャパン市場(のちのジャスダック市場、現・スタンダード市場)の創設を実現した御仁としても知られる。
大証再生に奔走する最中の2003年、68歳の若さで永眠。翌年に生前の功績が称えられ、正五位旭日中綬章を受賞した。そして、光世証券(東証プライム上場)の創業者である。
体躯のがっちりした声の太い人だった。初めて会った時の「僕は同志社大のアメフト部、応援団の出身でね。いかつい体で声も図太いけど、悪い奴じゃないから」と、大笑いしながらの言葉をいまでも記憶している。光世証券創業前は地場証券に身を置き、かの松下幸之助翁にも可愛がられていたという。
二度目に会ったのは、1973年だった。「大阪に出てくる機会があったら、顔を出してくれ。会わせたい男がいるから」と誘いを受けた。
そして紹介されたのが、当時、同社の専務だった小西宏氏。この年、光世証券は公共証券を吸収合併し、東京進出(支店設置)が決まっていた。「小西が東京支店長になる。宜しく付き合ってくれ」という話だった。
当時の光世証券は法人部門で実績を積む「モーレツ」型の企業だった(いまは、個人向けデリバティブ取引を軸にしている)。兜町では、「どんな男が城代家老として送り込まれてくるのか」と話題になっていた。
その小西氏は、「巽は同志社のアメフト、僕はラグビー部。4年の時にはキャプテンをやらされ、東の早稲田・明治をなぎ倒し、学生チャンピオンになったんです。社会人との日本選手権でも近鉄に勝ちましてな、全国制覇ですわ」と自己紹介。ひと呼吸入れて、こう続けた。
「弱肉強食、これが自分のモットー。最も端的に具現化できる仕事だと確信して、この世界に飛び込んだんです」
「食われる立場は嫌。社長には悪いが、大手にも入れたと思います。だが、歯車じゃおもしろくもなんともない。食う立場に自分を置きたい。一点突破、全面展開。ラグビーも仕事も一緒だと考えて、いつもそんなつもりで臨んでます」
事実、東京支店長着任からわずか3年後には横浜支店をオープンさせた。「やりますね」と電話を入れると、「関西系商社の証券本部が続々と東京に移ってきている。うちにとっては願ってもない環境、大阪時代のコネがプラスになりましたわ」。
ちなみに小西氏は2020年まで、日本ラグビーフットボール協会の評議員を務めている。
「あんたは僕を、おちょくってるんですか」
支店長クラスの「猛者」として忘れられない一人に、1976年に新日本証券(のちに和光証券と統合し新光証券。現・みずほ証券)の赤坂支店長に就任した森脇繁人氏がいる。
新人として新橋支店に配属になった際に、支店長にこう諭された。「自分も営業を長くやってきたからわかる。君は営業に向いていない。管理部門へ配属になるようにしてやろうか?」
森脇氏は内心、思った。「自分は口下手だ。山陰人(島根県出身)特有な“暗さ”もある。育った家庭環境もあり、どうしても明るく振舞えない男だ。支店長の言う通りかもしれない……」
だが、口を突いて出た言葉は真逆だった。「いえ、私は営業マンとして一本立ちして見せます」。そして本人の当時の言葉を借りれば、「あの支店長への一言が支えというか、意地になって……耐えられたし乗り切れた」。
森脇氏がオープン間もない赤坂支店にたどり着いた時、この支店は営業成績で「下」ランクだった。スタッフ数・予算・権限も最下位レベル。それでも祝いの電話を入れると、電話口の向こうから聞いたことのない怒声が。「あんたは僕を、おちょくってるんですか」
そして、こう続けた。「ここを『上』ランクにした時点で、祝いの電話をいただきます」。森脇氏の深奥に眠っていた「負けず嫌い」に火をつけたようだった。
赤坂支店は当時、赤坂・六本木・青山・麹町・平河町(官庁街)を営業エリアとしていた。野村證券の虎ノ門支店と真っ向勝負の地域だ。野村の支店長はエース格の岡莞爾氏。のちに専務まで昇進し、日本合同ファイナンス(現・ジャフコ)の副社長となって、「アジア投資の第一人者」と称された人物だ。
その岡氏から、森脇・新日本証券赤坂支店長について聞いた。「負けちゃいないよ。でも、森脇さんがわずか1年で『上』ランク支店に引き上げたのは事実。うちの部下に聞いた話だけど……」と前置きして聞かせてくれたのは、こんな話。
森脇氏は、自身が勧めた銘柄で大物経済人に二度の損を負わせた。当然、「出入りまかりならん!」。だが森脇氏は日参。「用はない。もう付き合わんと言っている」と、顔を合わせることすらできなかった。相手が根負けし(?)、玄関口に姿を見せたのは、3か月余りが経てからだった。
「何が言いたいんだ」と言い放つ相手に、森脇氏は……「◎◎◎を買われてはいかがでしょうか」。後年、森脇氏に長男が生まれた時には、この経済人が名付け親になったという。
ちなみに、森脇氏本人に何度か「件の経済人は?」と問うてみた。森脇流しつこさを真似て。森脇氏の返答はこうだ。「僕の愛読書は柳田誠二郎さん(元・日本航空社長)の『一生の鎮座』。柳田さんには大変可愛がってもらいましたから」
兜町には兵どもが闊歩していた
野村證券の元常務・徳本満弥氏なども忘れられない一人だ。司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵などで知られる画家・須田剋太氏の甥。野村證券お定まりの「福岡支店長」を経て、取締役となり、秘書室・広報室担当となった。
現在の野村證券は「大本営発表」式の広報で、個別取材にはまず応じない。徳本氏の時代は、広報室があるフロアは記者の溜まり場だった。
「昔は面白かった。いまはそんな兵どもの話を耳にしない」とは言わない。だが一昔前の兜町では、まさに「兵(つわもの)」と呼ぶにふさわしい面々に数多く出会ったことは事実である。