「買い出動は迅速に」 漁師の息子が株式投資で財を築き、伝説の相場師と呼ばれるまで

千葉 明
2022年8月31日 12時00分

写真はイメージです。fabio formaggio/EyeEm/Adobe Stock

《東京証券取引所が立つ日本橋・兜町。かつての活気は、もうない。だがそこは紛れもなく、日本の株式取引の中心地だった。兜町を見つめ続けた記者が綴る【兜町今昔ものがたり】》

最後の相場師・是川銀蔵

 是川銀蔵(これかわ・ぎんぞう。1897〜1992年)。「伝説の相場師」とも「最後の相場師」とも称される人物だ。

 是川氏を最初に意識したのは、誠備事件の時だ(参照:相場師か、投資コンサルタントか。兜町を騒がせた伝説の「歩合外務員」がいた)。故・加藤暠氏率いる投機集団・誠備の仕手戦(買い占め→株価急騰)に売り向かったのが、是川氏だった。

 加藤氏の摘発で一連の株は大暴落、是川氏が勝利を収めた。鮮やかな逆転勝ちに、「最後の相場師、健在」と兜町で改めて存在ぶりが指摘されたことを記憶している。

 そんな是川氏がいわゆる仕手戦に参入し、「相場師」と称されるようになったのは、70歳を過ぎてからのことだ。波乱万丈の人生だった。相場師として大勝利した1982年度には、高額納税者ランキング(長者番付)で全国1位(申告所得28億9000万円)にもなっている。

 本稿では、そんな稀代の相場師の足跡を振り返る。私は是川氏と直接の面識はない。是川氏の自著のうちの『相場師一代』(小学館)と、生前の是川氏を知る兜町の古参たちへの取材をもとに記す。

天下人を夢見て始まった人生

 相場の世界で名を成すまでに、是川は3回の倒産を体験している。

 兵庫県赤穂市に漁師の息子として生まれ、高等小学校を卒業と同時に神戸の貿易商に丁稚奉公に出る。一日の休みもない中での唯一の楽しみは、新聞に連載されていた『太閤記』を読むことだったいう。貧農から出世した豊臣秀吉の境遇を自らに重ね合わせ、鼓舞していたというのである。

 「天下人」を夢見た是川が、「世界経済の中心地ロンドンを肌身で感じたい」と思い立ったのは16歳の時だった。奉公先の貿易商が倒産したのが契機に。

 1914年6月、シベリア鉄道に乗るために中国・大連港に渡るも、足止めを食らう。日本がドイツに宣戦布告する直前で、大連には大部隊が送り込まれている最中。ドイツ軍が駐留する青島(チンタオ)を攻略するためだった。

 足止めされた事情を知った是川は、「日本軍を相手に商売をし、一旗あげよう」と軍隊を追い、青島に向かった。その距離、約250キロ。青島に到達直前に激しい下痢に襲われ、気を失って倒れた。

 運がなければ、是川銀蔵の人生はここで終わっていたかもしれない。しかし幸いにも、日本軍に救われた。炊事係として採用され、貿易商時代の簿記知識を買われて会計係も任された。信用を得て、軍事物資の運搬を引き受けるようになった。「日本軍でひと儲け」を実践する機会に出会ったわけだ。11月には、蓄えた資金で貿易会社を作った。

 ……が、好事魔多し。将校たちへの夜な夜なの接待が憲兵に賄賂とみなされ、逮捕されたのだ。しかし未成年だったからか、それが是川の人柄だったのか、「君はまだ若いし、才もある。正道を歩け」と無罪放免となった。1回目の倒産である。

 「己の未熟さに涙し、再スタートを誓い帰国した」と是川は記している。

震災、恐慌、戦争……2度の倒産

 1918年、是川は親戚から貝ボタンの製造工場を任された。家族を持った是川は大戦景気の追い風に乗り、翌年、大阪で鉄のブローカーとして独立。1923年には関東大震災の復興用のトタン板を買い占め、大儲けした。相場師への片鱗を窺わせる出来事だったが……。

 金融恐慌により、2度目の倒産の憂き目に見舞われる。1927年、妻子5人を抱える31歳の時だった。収入の道は途絶えた。その時、是川はどうしたか──これが、凡人と天下人になる違いなのかもしれない。

 是川が東京で証券口座を開いて売買の窓口にしていた中小証券で「何回かお目にかかった」という兜町の古株は、「経済の勉強に精魂を費やしたそうだ」と懐かしそうに話した。倒産直後のことだ。「生活費は友人から借りて、大阪の中之島にあった図書館に3年間通い詰めて、世界経済・日本経済の勉強に明け暮れた」というのだ。

 「勉強の結果を株式投資で試そう」と、1931年、是川は軍資金70円(現在に換算すると約4万5000円)を携えて大阪の株の街・北浜に乗り込んだ。詳細な記録はどこにも残っていないが、この年の暮れには、元手は7000円(約45万円)になっていたという。伝説の相場師、誕生の瞬間か。

 1933年には大阪に経済研究所を設立した。「“当たり屋”が運営する経済研究所」は順風満帆で、スタッフを50人ほど抱えるまでになった。だが、1938年には研究所を解散してしまう。著書には「主要各国の財政を分析するうちに、戦争の兆候を察知した。日本の戦力に貢献したいと考えた」と記されている。

 現に1938年、是川は朝鮮半島に渡る。そして1942年に製鉄会社を設立。軍需需要を背景に、社員数はピークで3000人にまで達していたという。

 ……が、敗戦で全てが元の木阿弥。3度目の倒産。1946年、ほうほうのていで、山口県仙崎港に逃げ戻った。49歳。是川は、再び北浜に身を置いた。

伝説の相場師の投資法

 是川には株式投資について、「投資5か条」「カメ三則」と呼ばれる遺訓を残している。代表的なのは、以下の4点。

  1. 銘柄は自分で勉強し選ぶ……付和雷同で手を出すな! ピーター・リンチ氏の「調査なしで投資をすることは、手札を見ないでポーカーをするのと同じ」に相通じる。
  2. 過大な思惑はせず、手持ちの資金で行動する……レバレッジをかけるな、ということだろう。
  3. 上がり株の深追いは禁物……具体的には「株価には妥当な水準がある。株価は最終的に業績で決まる」という言葉を残している。
  4. 不測の事態などリスクはつきものと心得る……リーマンショック然り、コロナショック然り。株価・株式市場に不測の事態はつきもの。だから(Ⅱ)が大事、ということだろう。

 是川流株式投資によって「相場師」の名をほしいままにし、いまなお伝説として語り継がれる事実を記す。先に、1982年度の「長者番付」で全国1位になったと記したが、それを導いた一件だ。

 是川は「材料発見はこの一紙で十分」と、日本経済新聞しか読まなかったという。1981年9月18日、その日経が「鹿児島県菱刈鉱山に高品位金鉱脈を発見」と題する記事を配信した。「700メートル間隔で打ち込んだ2本のボーリングが、金の含有量の優れて高い鉱石を掘り当てた。さらに金脈の上と下にある<母岩>が四万十層につながっている可能性が高い」という内容だ。

 これを読んで「84歳の胸は動悸にうたれた」(『相場師一代』より)。翌日、機上の人となった是川は工事現場の事務所に飛んだ。事務所では「これ以上掘っても、採算ベースに乗らない鉱脈が続く可能性が高い」とはぐらかしたが、是川は悟った。

 「四万十層は四国の四万十川から九州南端まで続いている。即座に確信した。たまたまそこに金鉱脈があったのではない。広範囲にわたり続いている」。菱刈鉱山を保有する住友金属鉱山の前日終値は226円。「買い出動は迅速に」の持論どおり、信用取引を含めて買いまくった。

 5000万株を保有した翌年の年明け、株価は705円にまで化けた。「欲に釣られ、勝ちにおごっているうちに相場は引き下げ、利が剥げる」の持論に揺さぶられながら、買い増しこそしなかったが、保合相場に耐えた。

 そして是川は、200億円の利益を手にしたのである。

最後の相場師の、最期

 不思議な後日談がある。「最後の相場師」是川銀蔵氏の遺産は、2LDKのマンションだけだったというのだ。諸説ある。「晩年を過ごした施設でも、相場を張っていた。それで損を出した」「株で儲けた金は、恵まれない子供たちの為に奨学財団をつくり、そこにほぼ全財産を投じた」など。

 詳細は調べず、書かぬが華だろう。

[執筆者]千葉 明
千葉 明
[ちば・あきら]東京証券取引所の記者クラブ(通称・兜倶楽部)の詰め記者を振り出しに、40年以上にわたり、経済・金融・ビジネスの現場を取材。現在は執筆活動のほか、講演活動も精力的に行う。『野村證券・企業部』『ザ・ノンバンク』『円闘』など著書多数。
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